日本のインドネシア占領と独立運動
講師;藤原 彰
先生(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)
●はじめに
あの戦争がアジアの解放のための戦争だったのか、それとも日本の戦略戦争だったのかについては、戦後50年以上経っているのに、まだ日本の国内では真っ二つに意見が対立しています。
あの戦争は自衛の戦争であり、アジア解放の正しい戦争だったという意見と、そうではなくアジアに対する侵略戦争だったという見方とが、真っ向から対立しているのが実情です。そしてその点に関しては、日本国内の議論が全く世界から孤立していると言ってもいい。日本の国内では、戦争が侵略戦争であったというのはむしろ少数派で、戦争は自衛戦争であった、アジア解放の戦争であったという考えが多数派です。政治家なんかにも多いのですが、これが外国に知られると、ものすごい反発を買うわけです。
欧米諸国もアジア各国も、あの戦争は日本の侵略戦争であったことで一致しています。日本がアジアの各国を独立させたのではなく、日本に対する闘いがアジア各国に独立をもたらしたのだ、ということは、歴史の真実だとして各国で認められている事実なのです。それに反するような考え方が日本から伝えられて行くと反発を買って、日本はアジアでは尊敬される国ではなくて、むしろ嫌われ、非難される国になっているというのが実情です。
そこへまた、この前(=映画『プライド』のこと)と同じ考えを持った映画(=『プライド』第2弾として製作発表された映画『ムルデカ(仮題)』のこと)が作られるというのは、大変残念なことです。
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●日中戦争の行きづまりから“南進”へ
今日はごく大雑把に、いったい日本のインドネシア侵攻とは何だったのか、その中で起きてきた独立運動とはどんなものだったのか、をお話したいと思います。
日本が今のインドネシア(当時はオランダ領=蘭印)への進出を具体的に考え出したのは、そんなに古いことではありません。1940年前後からです。それは何故か。それは日本が中国との戦争に行きづまったからです。日本は中国を簡単に征服できると思って全面戦争を始めたのは、1937年です。ところが中国の抗日民族統一戦線の抵抗で、思ったように簡単に中国は片付かない、泥沼の長期戦に陥ってしまいました。
日中戦争が日本にとってどれだけ負担であったかを考えてみます。当時日本陸軍は、基本的にソ連を日本の敵と考えていて、対ソ戦争の準備を進めていました。また海軍は太平洋の覇権をアメリカと競うという目的で、対米戦争の準備をしていました。
そして1936年(昭和11)に「2.26事件」という軍部のクーデターが起こります。この事件は、事件を起こした連中は処分されますが、日本の右傾化、戦争への道を大きく展開させるきっかけになりました。
この直後から軍部の発言権が大きくなって来て、日本の基本国策として、国策の基準というものを決めさせて、陸・海軍備の大拡張に乗り出して行くことになります。その計画とは何か。ソ連を相手にして勝てるだけの陸軍と、アメリカを相手にして勝てるだけの海軍を、同時に作ろうという内容なのです。
そして陸軍は、1937年を第一年度として陸軍軍備充実6カ年計画、海軍は第三次補充計画〜「戦艦大和」や「武蔵」などの馬鹿でかい戦艦を作る計画を立て、軍備拡張に乗り出した。
その第一年目に、中国との戦争が全面化するわけです。ですから中国との戦争は、日本の軍備拡張計画の障害になるのですが、それほど大きな戦争と考えていなかった。脅かせば中国は簡単に屈服すると考えて、近衛首相や杉山陸相や広田外相は戦争拡大の道をとったのです。
ところが、これが思いがけぬ大戦争になってしまいます。陸軍は100万の大軍を中国戦場に送り込みました。これは日清・日露戦争に比べて、はるかに多い大軍です。しかもそれでも中国を屈服させることはできない。戦争は長期化していきます。戦争の消耗も非常に大きくなって、戦費がものすごくかかってくる。国民生活は、そのために非常に圧迫させられました。
しかも一方では、ソ連と戦争するための大陸軍計画を実行している。一方では、アメリカと対抗する大建設計画を同時にやっている。軍備拡張をやりながら、一方で戦争をやっているということで、当時の国家予算を考えて見ますと、昭和初期の国家予算というのは一般会計の歳入・歳出20億円、それが1936年(昭11)「2.26事件」以降急速に国防・軍備充実を言い出して、30億円に膨れ上がってしまった。しかし30億円に膨れ上がった年度予算の他に、その何倍、何十倍もの臨時軍事費を使う戦争が進行していくわけです。
そしてその軍費〜特に日露戦争のような大きな戦争はどうやって戦争したかというと、戦争に使う臨時軍事費は、アメリカとイギリスから借りたのです。ロンドンとニューヨークで外債を発行して、その戦争を賄ったのです。つまり、外国のお金を借りて戦争をしたのです。ですから戦後にそのお金を返すために非常に苦心した訳です。
今度(日中戦争)は、日本は世界で孤立しているのです。国際連盟を脱退して、不戦条約に反して中国と戦争している訳ですから、アメリカからもイギリスからもお金は借りられない。結局その戦費は、国内から調達しなければならない。つまり、国債を発行した訳です。
どのくらい乱発したかと言いますと、太平洋戦争の終わりまでに出した国債は1,800億円。これは単年度の国家予算の90年分です。普通ならば破産です。しかも国債という形で国民から借りた訳で、返せるわけないんです。年収の90年分なのですから。
どうやったか。手品を使ったのです。戦後に調整インフレ(=国が計画的に起こすインフレ)を起こしてしまった。そうしたら、借金がパーになってしまいます。その分どうなったか、国民全部が貧乏になってしまった。そういう戦争の仕方をした訳です。それほど大きな戦争だったのです。ですから、国民生活はトコトンまで窮屈になって行く訳です。
しかも、一方では軍備拡張しなくてはならない、国際的には孤立している、外国から物が入って来ない、貿易もできない、ということになって、日中戦争の行き詰まりから日本が目をつけたのが、資源の豊かな東南アジアだったのです。日本にない軍事資源が沢山ある。鉄も石炭もニッケルもタングステンも、とりわけ重要な石油もあるということで、南方へ出て行こうとするのが、日中戦争が行き詰まってからなのです。
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●きっかけは、ヨーロッパ戦線でのドイツの勝利
そうした状態の中で、特に大きなきっかけになったのが、1939年(昭14)から始まったヨーロッパの戦争です。ヨーロッパ戦線は、最初の半年から一年は戦線も動かなかったのですが、翌年1940年春にドイツが電撃的に勝利します。つまりオランダ、ベルギー、フランスを征服してしまったのです。
東南アジアは、それらの国の植民地です。当時、ニューギニアの西半分から、スラウェシ、ボルネオ(カルマンタン)、ジャワ、スマトラの地域は、オランダの植民地です。それからベトナム、ラオス、カンボジアはフランスの植民地。マレー、北ボルネオがイギリスの植民地です。
そのフランスとオランダがドイツに征服されてしまった。主人がいなくなってしまった。これを取れば行き詰まった戦争経済を何とかすることができる。つまり、南方の資源地帯が必要だ、しかもそこの主人が負けてしまった、これは絶好のチャンスだ、という考えが急速に日本の指導部の中に広まった。特に軍部がそう考えるようになりました。
とりわけ魅力だったのが、石油です。当時、石油は今のように中東では発見されていません。日本の石油はどこから入って来たかというと、アメリカから買っていたのです。この時期の日本の貿易の最大の相手国は、今と同じアメリカでした。そして日本がアメリカから買っていたのは、石油と鉄、それと工作機械。特に鋼鉄です。日本の製鉄業はまだ充分に発達してなくて、鉄鋼一環ができていなかったのです。だからアメリカからクズ鉄を買って来て、鋳造し直して戦車や軍艦を作っている、という状態だ った訳です。
日本はアメリカに何を売っていたかというと、生糸と絹織物です。つまり農民が厳しい労働の中で作り出す蚕を製糸女工さんが紡いで作る生糸が、日本の最大の輸出品だったわけです。生糸で軍艦を買った、と言われているように、対米輸出品の最たるものであった。
ですから当時日本は、国内総生産というのは、1940年前後でアメリカの16分の1しかない。しかも日本国内の工業は充分に発展していなくて、鉄と石油をアメリカから買っているわけです。日本がアメリカに輸出しているのは、生糸と絹織物です。その国がアメリカに戦争を吹っかけるなんて、もともと考えられないわけです。無謀ですから。しかし、南方を占領しようとは考えていた。つまり、必要なものはこっち(東南アジア)から取れる、と考えたのが、最初の南進のきっかけです。
“南進”という考えが起こってくるのは、フランスがドイツに負けたことがきっかけです。1940年の春にドイツが勝利します。そうすると日本国内が沸き上がって、新体制を作ろうとする。新体制というのは、ドイツのような一国一党の強力な政治体制を作って、総力を戦争経済に集中しようという体制です。そして同時に南進をする。
具体的には、三国同盟(ドイツ・イタリア・日本)を結ぼうという考え方が急速に広がって来ます。そのために新しい政権を作ろうということでかつぎ出されたのが、近衛でした。長引く中国戦争に嫌気がさして、1939年初めに近衛は内閣を投げ出していたのですが、その近衛をもう一度出馬させて新体制を作り、この方向に大きく転換しようという考え方が、昭和15年、1940年の新体制運動だったわけです。その先頭に立ったのが軍部です。そして、米内内閣を倒して第二次近衛内閣が誕生します。
第二次近衛内閣がまず決めたことは、ドイツと同盟を結ぶ、南方に進出する。具体的には、まず仏印に軍隊を進めるということを決める。これが日本の南進の第一歩だった。
この年は仏印まで来るのですが、本当の狙いはオランダ領のインドネシア=蘭印でした。日本が仏印に軍隊を進めたということは、明らかにインドネシアに行くための軍事的拠点であるということは分かりますから、これに対してはアメリカもイギリスも強く反発します。アメリカはフィリッピン、イギリスはシンガポール・マレー・北ボルネオを領土としている。明らかに近い。日本の南進は、日本の侵略が更にこちらの方に広がって行くのだということを示す兆候と考えて、アメリカもイギリスも日本に対して強硬な手段に訴えて来ます。
それは経済封鎖。特にアメリカは、この40年には日米通商条約を破棄して、日本が武力行使をするのなら石油を売らないぞ、ということをほのめかすわけです。
鉄も石油もアメリカから買っていて、そのアメリカに戦争をしようなどということは考えられない。軍艦も飛行機も、鉄がなければ作れないし、石油がなければ動きませんから。アメリカに対して強硬な態度を取ることは大問題なのですが、この頃の陸軍は、アメリカとはやらないで、オランダとイギリスをやっつけようと考えているわけです。フィリッピンを素通りして、こちら(マレーやインドネシアなど)だけ取ればアメリカは戦争しないのではないかと、非常に虫のいいことを考えている。
アメリカはそれが分かっているから、南進そのものを認めないという態度を強く取っています。
とりわけ(日本の)海軍は、アメリカに石油を止められたら戦争は出来ない、それでは困るということで、海軍は猛烈な勢いで1940年前後にアメリカから石油を大量に買いまくるのです。つまり、買い溜めをしたわけです。
アメリカは資本主義国ですから、日本が高いお金でなんでも買おうとすると、いくらでも売るわけです。日本はジャンジャン石油を買って、備蓄する。そして海軍が考えたことは、アメリカから買い込んだ石油がある間にやっつけてしまおう、ということでした。
翌年41年になりますと、日米交渉が緊迫して来ます。アメリカと日本の最大の争点は、アメリカは「中国から撤退しろ」「侵略をやめろ」ということであり、日本はアメリカに「石油を売れ」ということだった訳で、これは解決出来ることではなかったのです。
どうなったかと言えば、はじめは南方進出に対し、アメリカと戦争になるのではないかと慎重だった海軍も、この時期に急速に対米主戦論に変わっていきます。どうしてか。今有る石油のあるうちにやってしまおう、どうせ戦争するのなら早い方がいい、と考える訳です。
1941年秋、日米交渉が緊迫化する中で、日本は開戦に踏み切ります。開戦に踏み切るときに初めて、具体的に日本の南方作戦計画が考えられるようになります。それまで日本陸軍は、主敵はソ連で、対ソ戦争のことばかり考えて計画をし、準備をしていたわけです。軍隊の訓練は、すべて対ソ戦の準備でした。
私は当時、士官学校の生徒でしたが、もっぱらソ連との戦争の訓練をしていました。アメリカとの戦争など、考えていなかった。
ところが日米交渉がうまく行かない、思い切って一か八かで南方に出て行こう、と日本は考え出す。考え出すときに日本は、この地域を占領することを計画する訳です。
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●もともと勝つ方法のない戦争
この戦争する目的は何かと言えば、中国との戦争に行き詰まって南方の資源が必要になったから、この地域の資源を取る、というのが軍事目的なわけです。しかし、その地域の物質がほしいと言って出て行けば、アメリカ、イギリス、フランスを敵にして戦争を始めるということになる。
中国とずっと戦争を続けていて、その戦争にさえ勝てないで、行き詰まって南へ行く。それはもっと大きな戦争になってしまうのですが、普通戦争を始めるときに、負ける積もりで戦争をやるという人はいないわけで、どうやって勝とうとしたのか。勝つ方法などないのです。 国策を決める大本営政府連絡会議でも、戦争をやると決めておいて、対米開戦を決めた後で何を考えたかというと、戦争をどうやって終わらせるか、この戦争の名目は何にするか、ということを後で決める訳です。
勝つ方法のない、例えば、クラウゼヴィッツというドイツの軍人が、『戦争論』というのを書いています。〜それが気に入って小林よしのりというマンガ家がまた『戦争論』というのを書いていますが〜戦争に勝つということは、相手の戦争意志を屈服させることだと定義しています。相手の戦争意志を屈服させるということは、相手国を占領する、あるいは相手の軍隊を完全に破壊することだ、としています。
ところが、日本がアメリカと戦争をしてアメリカに勝つということは、太平洋を横断して西海岸に上陸し、更にロッキー山脈を越えてワシントン、ニューヨークを占領するということです。とても考えられません。さすがに誇大妄想の軍人も、そこまで考えていない訳です。勝つ方法がないのです。
ですから、この戦争終結の腹案を作る大本営政府連絡会議の決定は、「南方地域を占領して、そこの軍事資源を活用して長期不敗の体制を整える。長いこと負けないでいる。そのうちヨーロッパでドイツが勝ってくるだろう。そうしたらアメリカも嫌になってくるだろう」という他力本願なことしか考えなくて、それで戦争を始めている訳ですから、随分無責任な話ですが、これが大本営政府連絡会議の決定だったのです。
もう一つ、南方地域を占領するその目的は何か。その地域の独立を助けるというのではないのです。全然逆なのです。【資料1】の「南方占領地行政実施要綱」には、「重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保」とある。要するに石油、鉄など必要な物を取る。これが第一目的。第二目的は、出て行った軍隊は日本から物を送らないでも自活してやって行くこと。さらに資源の確保と占領軍の現地活動のためには、民衆を圧迫することになるけれども、我慢させるのだということです。それから宣撫上の要求=つまり民衆をなだめるために必要なことは最小限にする。これが基本方針。
更に現地人に対しては、日本軍に対する信頼関係をもたすようにさせて、独立運動の如きは起こさせないようにするのだ、ということを大本営政府連絡会議で決めています。つまり具体的な方針は、独立運動をさせないのだ、物を取ることが目的なんだ、ということをはっきり謳って戦争を始めた訳です。
そして始めてみると、当時ヨーロッパ諸国は、ドイツが英本土に上陸するのではないかという危機が迫っている時ですから、ヨーロッパが第一です。アメリカもドイツが主敵だと考えている。日本をやっつけてもドイツは困らないけれど、ドイツをやっけてしまえば日本なんぞ簡単に片付けられるだろう。だから、ドイツに対して全力で集中するのだということが、アメリカの最初の方針なのです。
だから、こちらの方は手を抜いている。ですから初期の作戦は割合計画通りにうまく行き、最初の三カ月で英米軍を打破してこの地域を占領してしまいました。
ではその占領した地域を具体的にどうするかと言えば、「軍政」を敷くわけです。独立させるのでなく、軍が直接統治関与するのです。そして、その軍政の担当を、勢力争いをしている陸軍と海軍が分割するわけです。海軍はボルネオ、セルベス、ニューギニア、陸軍はそれ以外、ということで分割した。ようするに陸・海軍が分けて占領する、分割統治をすることを決めるわけです。(【資料2】)
更に【資料3】は、軍政の具体的なやり方を決めているのですが、現地政権を利用して一応何とかしようと考えているのが、仏印とタイです。
タイは、曲がりなりにも独立国です。ですから日本とタイの間で条約を結んで、日本に協力させる。
フランス領のインドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)については、この頃のフランスはドイツに協力する政権、ビシイ政権が出来ていて、ドイツの言いなりですから、日本の言いなりになる。
その他の地域は、軍政を敷くと決めるのです。しかもその軍政は分割統治。目的は、独立運動は抑え独立させないで、日本に必要な物は取り上げることが第一、ということが基本的な方針として示されている訳です。
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●インドネシアは「帝国領土ト決定ス」
次に、具体的にインドネシアのことを説明します。インドネシアに関しては、日本の領土にする、独立運動はさせない、が基本的な方針です。1943年5月31日の御前会議(【資料4】)で、日本の占領地の具体的な統治の仕方について決定していますが、インドネシアは直接の領土にすると決めております。「マレー、スマトラ、ジャワ、スマトラ、セレベスは帝国領土と決定する」「重要資源の供給源とする」。つまり、独立させないという決定なのです。
しかもこの地域は、実は日本が占領すると同時に、分割統治にしてしまいました。分割統治になる理由はいくつかあるのですが、最も重要なことの一つは、初期の占領政策にあったということが出来ます。
戦争が始まると、まず海軍は真珠湾を攻撃して、アメリカの主力艦隊に打撃を与えて、やって来ないようにする。一方は、第二艦隊以下の南方部隊で、この地域の制空・制海権を獲得する。そして陸軍は、先ず25軍という軍隊をマレー半島に敵前上陸させ、シンガポールを攻撃させる。15軍はタイに進出させて国境を越えビルマに向かって行く。16軍はフィリッピンに上陸する。そしてこれに目鼻がついてから、軍隊を二重使用して16軍でインドネシアを占領する、という計画を立てていました。そしてシンガポール攻略、マニラ占領後の翌年2月から3月にかけて、スマトラ更にジャワとインドシナに対する進攻を始めて行く訳です。
ここに進攻した部隊は、今村均という将軍が指揮する16軍でした。この今村という将軍は非常に誠実で謹直な軍人だったということになっています。この軍隊がインドネシアに進攻して来ますと、インドネシアでは住民が日本軍を大歓迎する訳です。つまり、それまでオランダの植民地支配のもとで苦しんでいましたから、「救世主が来た」、まさに「“ムルデカ”のために日本軍が来た」と大歓迎する。それに応えて今村中将も、占領政策を比較的に住民本位にやろうとする訳です。
ところが、それに対して大本営でも、南方総軍でも、「今村中将のやり方は寛容すぎる」「威厳をもってもっと厳しくやれ」という批判が高まってくるのです。そうして占領後の1942年3月に、杉山参謀総長が直接ジャカルタ(当時はバタリア)まで出向き、叱咤激励をする。16軍の方針もそれから厳しく変わって行きます。
もう一つは、そういう16軍にすべてを任かしておくわけには行かないとして、16軍の担当地域を狭くしてしまう。シンガポール(マレー)を占領した25軍の山下奉文に、スマトラまで支配させる訳です。そして、ボルネオは海軍にやらせる。16軍はジャワ島とバリ島だけの狭い地域になる。こうして分割統治になる訳です。
軍政も、インドシナ全体をひとまとめにするのでなくて、いくつにも分けて支配し、16軍の権限を弱めていきます。こういうこともあって、南方軍と16軍の間にはわだかまりがある。
そのうち、翌42年、ガダルカナルに米軍が進攻して来ます。ガダルカナルの戦況が悪化してくる。ラバウルに新しく米軍の攻勢を阻止するために第八方面軍というのを作って、その第八方面軍の指揮官に今村を転任させてしまう。今村はジャワから去って、ラバウルに行ってしまいます。
更に16軍の基幹部隊であった第二師団を引っこ抜いて、ガダルカナルにつぎ込みます。それからも兵力抽出が続いて、16軍は二つの旅団しか残らなくなってしまい、大本営と南方軍は16軍をいじめたと言っていい状態でした。
そして軍政は資源の獲得、そのために日本の民間商社も随分派遣して工作を始めるのですが、同時にインドネシア人の労力も使うことを考える訳です。
第一に、日本軍が足りない、守備隊が二つしか残っていない。兵力は43年10月の段階で7,978人。インドネシア人を利用して「兵補」を作り、日本軍の部隊に配属した。この兵補が12,370人。その他、インドネシア人の「防衛義勇軍」というのを作らせた。これは35,360人。なぜこれらを作らせたか、次の問題として説明します。
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●インドネシア人の力を利用
太平洋戦争の戦況は、1942年にアメリカがガダルカナルに上陸して、半年間の激戦が展開されます。しかし日本軍は、制海・制空権を失ってガダルカナルの陸兵は飢え、餓死してしまった。ガダルカナル島は餓島と言われ、最終的には撤退します。
その後、ソロモン群島沿いとニューギニアの北岸沿いに、アメリカ・オーストラリア連合軍が前進して来ます。激戦が展開され、このあたりも戦況が緊迫してきます。
それまでは、インドネシアは治安が安定している、と日本は考えていた。民衆が日本に対して協力的だから、と。しかし、日本国の基本方針は独立させない、そして資源・労力を提供させるということですから、だんだん化けの皮が剥がれてくる訳です。それでは困る、インドネシア人を日本に協力させるにはどうしたらいいかを、1943年になってようやく考え出すのです。
最初に考えたのが、日本国内にある大政翼賛会のようなもの、インドネシア人の民族の総力を結集させる「プートラ(=総力結集)運動」を展開させることにしました。そして、闇雲に押さえ付けるだけの軍政から、ある程度インドネシア人の自発的な協力を引き出そうと考える訳です。これは、今村を継いだ原田熊吉という軍司令官が考えたやり方であった。
ところがプートラ運動をやりだすと、この実権を握ってしまったのがインドネシアの民族主義者のスカルノだったのです。 インドネシアはもともとオランダの領地で、独立を認めない植民地ですから、それに対する反対運動はもともとあります。1920年にインドネシア共産党(アジアでは早い方)が作られ、この共産党がオランダに対して武力闘争を展開していた。さらに1927年には民族主義の政党として、インドネシア国民党が出来る。この党首がスカルノです。この国民党が急速に勢力を伸ばしていきます。
オランダは、共産党は徹底的に弾圧し、国民党は分裂させます。30年代に入って国民党は、スカルノ派とハッタ派に分かれる。それに乗じて指導者を逮捕してしまう訳です。
彼らは日本が進攻したことによって釈放されますが、日本はインドネシアの独立を認めないというのが方針ですから、活動はさせない。活動はさせないけれど、戦況が逼迫して来てインドネシア人の協力が必要ということで、プートラ運動を始める。始めるとスカルノは実権を握ってしまう。これはまずいということになって、43年には逆に弾圧を始めることになります。そして大政翼賛会のようなもので、「ジャワ奉公会」というものを作らせます。
一方、プートラ運動を始めたときに、ジャワの防衛は民族の自主性を結集するということですから、インドネシア人にやらせようという趣旨のもとに、「防衛義勇軍」を作らせます。ジャワ島に66大団、バリ島に3大団、計69大団、36,872人のインドネシア人の軍隊を作らせて行く訳です。
しかし、プートラ運動を弾圧し、さらに奉公会に変えさせても、武器をもったインドネシア人、武装訓練した部隊が残る訳です。これが後にインドネシア独立運動の有力な母体になります。これに影響力をもったのがスカルノであった。もちろん大した武器は持たせないのだけれど、しかし団体の軍事訓練をしていることで、これが後の戦いの有力な土台になったということが言えます。
1943年御前会議で「大東亜政略指導大綱」を決定した後、1943年11月に東條が「大東亜会議」というものを東京で招集します。この大東亜会議には、大東亜の各指導者〜満州国、中華民国の日本傀儡政権、タイ、日本が独立を認めたビルマ、フィリピンの指導者を集めるのですが、インドネシアは呼ばない。スカルノは呼ばれません。インドネシアは完全に領土にしてしまおうという考え方ですから、独立を認めない、それどころか、現地の自治も認めていないからです。
ところが大東亜会議の後、軍事訓練をした防衛義勇軍が存在しているインドネシア民衆の中には、特に16軍関係、ジャワ島ではスカルノ、ハッタの指導する民族運動が急速に広まって来ます。独立の要求が非常に強く、中央の方針では抑え切れなくなって来ます。そうすると現地の16軍が板挟みになってくる。
16軍というのは、日本の軍隊はほとんどいなくなっており、一方その何倍もの義勇軍がいる訳で、そんな方針でやっていると統治できない。それで、16軍当局は板挟みとなって現地人の要求を認めざるを得なくなってくる。中央の方針と現地の方針とが、非常に食い違ってくる。
しかし、戦況はますます悪化してくる。1944年(昭和19年)になると、ニューギニアがアメリカ軍に押さえられ、さらに壕北地区(オーストラリアの北)が戦場になる。アメリカ軍の対日反抗の拠点はオーストラリアで、マッカーサーはオーストラリアにいて日本に対する反抗を指揮している。だからニューギニア沿いにアメリカ軍がやってくる訳ですが、今度はここに来るのではないかということから、この地域に第二方面軍(最後の陸軍大臣・阿南惟幾を軍司令官にする)を作る。そしてティモール島やこの地域の防衛を強力にし、ジャワ島に対してインドネシア人を日本に協力させるため、その要求をある程度認めざるを得ないという立場に立ってくる。
7月に東條内閣が倒れ、小磯内閣が生まれる。小磯内閣は「将来は東インドの独立を考える」という方針に転換するのです。現地の16軍は、そういう方針が出たということで、「独立準備調査会」というのを設置(1945年3月)し、「調査会」にスカルノなどを入れて、義勇軍が日本軍に反抗しないよう(一番怖いことだから)、「将来は独立させてやるかも知れないから、その準備を始めるのだ」というような状況のもとで、日本軍の戦況はますます悪化し、ついに45年8月15日を迎えることになります。
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●降伏後も、日本軍は独立運動に敵対し弾圧する
45年8月15日がどういう時かというと、スカルノは当時サイゴンに行っていた。サイゴンには日本の南方軍の総司令部があった。スカルノは、南方軍の総司令部に独立を認めるよう要求しに行っていた時だった。
スカルノは大急ぎでジャワに帰ってくる。そのころスカルノは何を考えていたかと言えば、「日本軍には抵抗しない」「日本の後押しで独立を勝ち取るのだ」と穏和な考え方だった訳です。ところが防衛義勇軍の若手の幹部たちは、「今すぐ独立を!」という強い意志をもっている訳です。
〜という状況下で、日本の降伏が決まります。8月14日にスカルノは、ジャカルタに帰って来ます。スカルノが帰って来たことが分かると、日本の憲兵は「彼を義勇軍に行かせてしまっては、反乱を起こすかもしれない」ということで、押さえてしまうと同時に、日本軍は「軍のもっていた武器弾薬は渡さない」とする基本方針を決めるわけです。
要するに日本軍は、「連合軍に降伏したのだから、連合軍側の言い分を聞いて、インドネシアの独立要求を抑えよう」と決めるのです。ここから激しい事件が起こってくることになります。
8月17日、スカルノは日本憲兵から逃れ、防衛義勇軍の側に立って防衛義勇軍の独立要求を宣言する立場に立つ。8月17日、スカルノとハッタは、ジャカルタでインドネシア独立の宣言を行います。
インドネシア独立は言うまでもなく、日本軍によって分割されているジャワ島だけでなく、東インド全体を独立させるというものです。そういう宣言です。
それに対して連合国側は、それを認めない。とりわけ本国オランダはどうなっていたかと言えば、オランダ本国はドイツに占領され、亡命政権がロンドンに出来る。その亡命政権が実効的に支配出来るところはどこもないのです。本国が取られているのですから。そうすると、インドネシアを英米軍に回復してもらって、それを自分のよりどころにしたいと考えている。非常に強く独立反対の立場に立っているということが出来ます。
実際、最初にやって来てのはオーストラリア軍です。その前に日本軍に厳しい命令を出す。武器の引き渡しを要求する。インドネシア独立軍(もとの防衛義勇軍)と、渡す、渡さないで、抗戦になる場合もある。ただし、末端の兵士まで同じ行動したかというと、対応がバラバラになる。
その中で大きな事件は、10月に起きた「スラバヤ事件」です。スラバヤの独立軍が、日本軍の兵器を奪おうとしました。それに対して、やって来たオーストラリア軍と日本軍が一緒になって、大規模な戦闘になる。このスバラヤの戦闘では、独立軍が勝ちます。しかし、そうした激しい戦闘が起こって、結局11月にスラバヤで独立軍が勝利することから、戦争が全面化して行きます。
その戦争は結局4年間、1949年まで続きます。その間に日本軍は、段階的にインドネシアから撤退して行きます。オーストラリア軍も撤退し、オランダ軍に替わって行くのですが、オランダ軍の力ではインドネシア独立軍を抑えることが出来なくなってしまう。植民地戦争の闘いとしては、第二次大戦後の世界の中では比較的早く独立側の勝利に終わり、1949年12月にハーグ協定が結ばれます。
ハーグ協定では、オランダはインドネシアの独立を認め、独立軍の勝利が決まる。インドネシア共和国が成立する訳です。ベトナムのように、その後30年間も独立戦争を続けるところもありますけれど、オランダが割合力が弱かったということと、国際的批判があり、現実を認めなくてはならないのではないか、という声があった。特にイギリスは、インド、ビルマと独立を次々と認めていますから、そうした世界情勢の中でオランダも認めざるを得なくなって、結局4年間の独立戦争の後にインドネシアは独立し、国際社会の中でも認められて、インドネシア共和国が成立することになります。初代大統領は、その独立運動のシンボルであったスカルノが就任します。
ここで問題なのは、この独立に対して、日本がどういう立つ場であったのか、ということです。
日本は、基本的には、インドネシアは独立させず、日本直轄の領土にすると言ってきたわけです。インドネシア人を、「兵補」とか「義勇軍」とかに編成したのも、日本軍の下働きをさせる意味だった。ですからインドネシア人は、兵補という形で日本軍に直接使われたり、或いは労務者として連れて行かれたりした。またインドネシアへは、軍隊だけなく商社もいっぱい資源開発のために出て行っている。日本人の人口は、軍隊よりも多かった。その人々のために、インドネシアの女性が何万人も慰安婦にされた。ということで、結局日本はインドネシアの独立の援助をしたのではなく、それを抑えた側に終始立っていた。
そして、最後の段階で、戦争の局面が悪くなってきた時に、インドネシア軍の離反を防ぐために「将来は独立させてやる」といって日本軍に協力させる、防衛義勇軍を作らせるわけです。ところがその防衛義勇軍が何のことはない、独立軍の下になってしまった。兵補や義勇軍が独立軍の主要なメンバーとなって、日本軍と闘う。
8月16日、日本軍は義勇軍と兵補を解散と決定しました。解散命令を出して武器をみんな取り上げようとする。ところがそうはうまくいかない。日本の降伏を知った兵補や義勇軍は、解散命令にも、武器の取り上げにも従わない。「将来独立させる」とした約束の取り消しも認めないということになります。その後、武器弾薬をめぐって日本軍とインドネシア軍の闘争が続くわけです。
結局日本は、インドネシアの独立を救けたのでなく、妨害した。妨害したけど、結果的には彼らは日本と闘うことで力をつけ、やがてやって来たオランダ軍に勝利したということになります。
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●日本軍がアジア諸国の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民は強くなって行った
これは、東南アジア全体に言えることです。例えばビルマの場合、日本は形式的にはビルマの独立を認めました。認めたけれども、実質的には政治、外交、経済の実権を日本は握っていたわけです。日本がビルマに侵攻して行く時は、インドネシアの場合とは異なって、ビルマ人をあらかじめ訓練して「ビルマ独立義勇軍」を作らせておいて、これを連れて入って行った。これらはビルマ独立とともに、ビルマ国軍になるわけです。ところで、このビルマ国軍はどうしたか。日本の本心を見抜いているわけです。そこでインパール作戦で日本が負けると、反乱を起こしてしまう。日本軍の背後から日本軍を襲うわけです。この反乱を起こしたビルマ国軍の司令官がアウンサンで、例のアウンサン・スーチーさんのお父さんです。この人が、戦後のビルマ独立の先頭に立ち、日本軍と闘うことで独立したわけです。
ベトナムもそうです。「ベトミン」(ベトナム独立同盟)は、日本と闘うことで力を貯えて、戦後の長い反仏闘争、さらに反米闘争を闘い抜いて、今のベトナムを作って行く訳です。
日本軍がアジア諸国民の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民が強くなって行ったのです。中国共産党の周恩来が、冗談に「中国革命は日本のお陰だ」と言ったと言われていますが、それと同じことで、結局インドネシアの場合も典型的な例であった。日本はアジア解放とか、インドネシア独立を考えたのではない。初めから日本に必要な物を取り上げる、資源豊かだから占領する、と考えて、そういう方針をもって臨んで行った。そして独立運動を弾圧したのです。
レジメにある「シンガパルナ事件」と「ポンティアナク事件」は、いずれもインドネシア独立のために闘った独立運動と、それに対する日本軍の徹底的な弾圧の例です。
「シンガパルナ事件」というのは、この被害者が今日本に呼ばれていて証言集会をやっていますけれど、これは昭和19年の2月にジャワ島のシンガパルナという町で、イスラム教の寺院に対して日本が弾圧を加えた。神社参拝や天皇崇拝を強制した訳です。イスラム教の教えに反すると抵抗した者を、徹底的に弾圧したという事件なのです。
「ポンティアナク事件」、これはボルネオの西にある大きな町ですが、ここは古い領主が支配している訳ですけれど、その領主が日本日本対して抵抗を企てたということを口実に、領主や華人を大量虐殺している。
どちらの事件も戦後、戦犯裁判で裁かれていますけれど、これは一つの例でありまして、いたるところで独立運動、日本に対する抵抗運動が、日本憲兵や軍隊の厳しい弾圧に遇って、大量虐殺が行われている。つまり、きれいごとでは決してなかった。
日本は、インドネシアの独立を救けにいったのではなく、それを抑えに行った。しかしその日本軍と闘うことで、インドネシアの独立は成し遂げられてのだ、というのが真実であります。
それを美化して、「日本はインドネシアの独立を救けたのだ」、あるいは「アジアを解放したんだ」といった見方は、この戦争の真実を完全に歪める言い方に他なりません。この前の映画『プライド』がそうであったように、日本の軍国主義の復活の宣伝に使われることを、大変恐れるものであります。
(拍 手)
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【資料1】1941年12月20日大本営政府連絡会議決定の「南方占領地行政実施要領」
第 ― 方 針
占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ、治安ノ恢復、重要国防資源ノ急
速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス
占領地域ノ最終的帰属竝ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムル
モノトス
第 二 要 領
七、国防資源取得ト占領軍ノ現地自活ノ為民生ニ及ボサザルヲ得ザル重圧
ハ之ヲ忍バシメ、宣撫上ノ要求ハ右目的ニ反セザル程度ニ止ムルモノトス
八、現住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ、
其ノ独立運動ノ如キハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス
【資料2】1941年12月26日決定の「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」
陸軍ノ主担任区域 香港、比島、英領馬来、「スマトラ」、「ジャワ」、英領「ボル
ネオ」、「ビルマ」
海軍ノ主担任区域 蘭領「ボルネオ」、「セレベス」、「モルッカ」群島、小「スン
ダ」列島、「ニューギニア」、「ビスマルク」諸島、「ガム」島
【資料3】1941年12月12日閣議決定の「南方経済対策要綱」
甲地域 軍政を実施する占領地(比島、英領馬来、英領ボルネオ、蘭印)
乙地域 現地政権と共同する地域(仏印、タイ)
南方資源を中央の物動計画に織りこむことを主とする
【資料4】1943年5月31日御前会議決定の「大東亞政略指導大綱」
六、ソノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム。但シ(ロ)(ハ)以外ハ当分発
表セス。
(イ)
「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重
要資源ノ供給地トシテ極力コレカ開発並ヒニ民心把握ニ努ム。
(ロ)
前号各地域ニオイテハ原住民ノ民度ニ応シ努メテ政治ニ参与セシム。
(ハ) 「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準シ追テ定ム。
(ニ)
前記各地ニオイテハ当分軍政ヲ継続ス。